イエスキリストの十字架のわけ

エピソード3  収穫祭の日の出来事


これは、紀元33年に起った真実の話です。

イエスが十字架に架かって死なれ、その三日目によみがえられてから更に50日目のことです。

その日はユダヤの三大祭りのうちの「収穫感謝祭」の日で、朝の9時前ではありましたが、町は人であふれ、活気に満ちていました。

そんな中、ペテロは他のイエスの弟子達120人程と、一つの家に集まって祈っていました。

そして彼は、ここ50日の間に起こったことを思い出していました。

~ペテロはイエスが十字架に付けられた時、その場にいませんでした。

なぜならペテロは、イエスの弟子という事で、見つかれば一緒に十字架に付けられて殺されるかも知れないと恐れていたからです。
また「イエスと共に死ぬ覚悟さえある」と言ったはずだったのに、いざという時には三回も「イエスを知らない」と否定したことで、イエスにも会わす顔がありませんでした。
その時のペテロは、人から隠れながら、死への恐れ、恥ずかしさ、自分の惨めさ、罪悪感、絶望で満ち、ふるえ、おののいていたのです。

しかし、イエスが死から復活され、何度も彼に個人的に対面された時、彼は驚きと共に心から喜びました。
イエスから「私を愛するか」と聞かれた後、ペテロはイエスに全てを赦されている事を悟りました。

彼らが、ここ「エルサレム」にいるのは、イエスが天に上る前にペテロ達に「エルサレムを離れないで、聖霊を受けるのを待つように」と言われたからでした。

そして、イエスがみんなの見ている中で天に昇られてから、すでに10日経ったことを思い起しました。~


突然のことです。
天から激しい風が吹いてくるような「ごおーっ」といったひびきが起こり、彼らのいた家全体に響き渡りました。

直後、炎のような分かれた舌のようなものが現れて、ペテロ自身や回りにいた弟子達の頭の上に止まりました。
そのとたんに彼らは喜びに満たされました。そして、なんと他国のことばで話し出しました。
ペテロ自身、彼の知らない言葉が次々に口から溢れています。
他の弟子達もそれぞれが知らない言葉で喜びながら語っていました。

この物音に何事かと人が集まってきました。人が人を呼び彼らの家の周りは人で溢れかえりました。

集まった人の中には、昔、外国に住んでいてエルサレムに移り住んでいる人たちがいましたが、彼らがそれぞれ自分達の住んでいた国のことばで話すのを聞いて驚きました。
なぜなら弟子達はイスラエルのガリラヤ地方の出身者がほとんどで、外国の言葉を知っているはずの無い人たちばかりだったからです。

「一体これはどうした事か」と驚いている群集に向かって、ペテロは11人の弟子たちと共に立ち上がり話し始めました。
その時、ペテロの心は喜びが満ちて、もはやあの時の恐れや、恥ずかしさはありませんでした。
そして人々に語るべき言葉が出てきました。

聖霊が下ることが予め聖書に予言されていたこと。イエスが行われたこと、そして十字架に架かられたわけ、復活されたわけ、そして罪の悔い改めの勧めを大胆に話しました。

ペテロの力強い言葉は、まるでダイナマイトが破裂したように人々の心に広がり、その日一日で三千人がイエスを信じ、弟子の仲間に加えられました。

これがイエスが言われた「聖霊」が一番初めに人に臨んだ時の情景でした。
そして、ここから「キリスト教会」が始まったのです。

それ以来、イエスを神の子と信じるものの心に聖霊が住み、私たちと親しく交わってくださっているのです。

聖霊の性質は聖書に次ぎのように書かれています。
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」

「聖霊があなた方の上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」


イエスが十字架に架かったのは、私たちの罪の身代わりのためでした。
イエスが復活されたのは死に打ち勝つためでした。
そしてイエスが天に帰られたのは、聖霊が私たちのこころに住んでくださるため、私たちの助け主となるためなのです。