幸せになるためには色々な要素があると思いますが、中でも多くの人が「もっともっとお金があれば、
絶対幸せになれるはず」、と思っている人がたくさんおられることでしょう。
「もうすべてを、手に入れているので、これ以上お金が無くても十分幸せだ。」という人はなかなかいないように思います。
~ここにある金持ちの物語があります~
その人はお金もあり、使用人がたくさんいて、家畜もたくさん持っている、農家の大地主だったようです。
さらにその年は、近年まれに見る大豊作でした。
金持ちは、満足しながら心のなかで自分自身に語りかけました。
「今年は大豊作で穀物倉に入りきらない。そうだあの倉を取り壊しもっと大きな倉を作って、穀物や財産を
そこに入れておこう。
これから先、何年分もいっぱい物が貯められた、さあ安心して、食べて、飲んで楽しめ」
そこへ神様は金持ちに言われました。
「愚か者、お前の魂は今夜お前から取り去られる。そうしたらおまえが用意したものは
いったい誰のものになるのか」
このお金持ちは自分の命よりお金の方を優先するような生活を送っていたのです。
せっかく貯めたお金も、死んでしまえば、もうこの世で使うことは出来ないのに。
この物語を聞くと、お金を持つことは悪か、と言う結論になってしまうのでしょうか?
いいえ、お金が無くては生きてはいけません。
私たちが苦労して仕事をする目的は、結局はお金を手に入れて生活するためだし、
さらにゆとりがあればこれもしたい、あれもほしい、と思うのは当たり前のことです。
では、いくらあったなら満足して幸せと言えるのでしょうか?
あればあるだけ、困らないと思われますか?確かにそうかも知れません。
しかし、ここに落とし穴があるように思われます。
お金を求めていくうちに、最後にはお金に取り付かれてしまう場合が多いからです。
なぜなら、一つのものを手に入れても、さらに良いものを、さらに上質のものを手に入れたいと思うのが
人の常だからです。それは、どこまで手に入れても満足できません。
聖書にはこのような言葉があります
「たとえ全世界を手に入れても自分自身を失いまことの命を損じたら何の得がありましょうか」
自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびて、傷物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
自分の宝は天にたくわえなさい。」
まことの命とはイエスを神様だと信じてからこそ得るものです。
お金や物質の豊かさだけが本当の幸せではありません。
私たちは幸せに過ごすために次のように願いたいものです。
「貧しさも富も私に与えずただ自分に定められた食物で私を養ってください。
私が食べ飽きて神様を否み、神はいないと言わないように、
また、私が貧しくて盗みをして、私の神の名をけがすことがないように」聖書
皆さんはどう思われますか?