「救われた」という事は「助かったぁ」という事
私の少年時代の話です。
当時大津市秋葉台というところに住んでいました。(今も同じ町内に住んでいますが)
秋葉台の「台」という地名のとおり小高いところにあり、家から国道に向かって600メートルほどの下り坂があります。
何を思ってか、その坂をブレーキのほとんど利かない自転車で下り始めてしまいました。
当然、いくらブレーキを握っても、足で止めようと踏ん張ってもスピードは増すばかりで、国道がだんだん迫ってきます。
そこでとっさに自分で体を横に向け、わざと転んでわき道に倒れこみ自転車は止まりました。
怪我はしましたが、国道に突っ込まずに済み、「助かったぁ」という体験をしたことを今も覚えています。
また、学校で壁に突き刺さっている押しピンを取ろうと力を込めたら、取れた拍子に押しピンの針の部分がひっくり返って、自分の目に突き刺さって、あと数ミリで失明するところを助かったとか・・・
あなたにも病気や怪我、金銭や人間関係などで、助かったという経験はあるのではないでしょうか?
さて、キリスト教会などでは「私は救われた」という言葉を良く使いますが、
世間では、あまりなじみの無い言葉かも知れません。
「救われた」と言うのは、自分の命が危うくなって自分ではどうしょうも無いピンチの状態にいる自分に、手を差し伸べられて、危うい状態から「助かったぁ」ということなのです。
では、クリスチャンはそんな危険な目にあったことのある人たちの集まりなのでしょうか?
クリスチャンの中にはそういう人もいるでしょうが、全てがそうではないことでしょう。
クリスチャンが「救われた」というのは「こころ(霊)」が助かった事を示します。
聖書には人は死んだらひとり一人その人生の行いに応じて神様に裁かれるとあります。
そして有罪なら地獄、無罪なら天国への永遠の判決を受ける事になるのです。
その裁きの時に神様から無罪という判決を頂いた時「助かった」という事になるのです。
ここで「私は世間に顔向けの出来ない悪い事はした事は無いから無罪だ」と思われる人も多い事でしょう。
しかし神様の基準から見ると悲しい事に私達は例外なく罪を犯したものなのです。
人間は、初めの人であるアダムとエバがその創造者である神様に背いて罪を犯してから、
その罪の遺伝を受け継いでいます。
罪とは、刑務所に入れられるような罪だけが、罪ではありません。うそをつく事、親に背くこと、殺意、ねたみ、陰口、殺意 等 ・・・このような罪を生まれて一度も犯したことが無い人はいるでしょうか。
そして何よりも神を神として認めない生活が「罪」なのです。
また、修行や自分の努力によって罪が消え去る事はありません。
この世では、罪に問われても、執行猶予が着いたり、懲役何年という期限がつく事もありますが、
この場合は永遠に変わる事が無い裁きが下されるのです。
これはまさに自分の命が危うくなって自分ではどうしょうも無いピンチの状態です。
そこに神様は不思議な方法で手を差し伸べられました。
すなわち自分の一人子イエスを遣わされ、私達の罪の身代わりになって十字架の刑を受けるようにして下さったのです。
私達は「私の罪の身代わりに死んでくださった」事を信じるだけで、無罪とみなされるのです。
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。
そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」
「神はすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」
「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」
聖書