仕事も終わりかけの夕方のことでした。
ふとした拍子に、右側の足の付け根に手をやると鈍痛がしました。
すこし歩いてみましたが、確かに痛さかあります。
「何だ?この軽い痛みは?」
「もしかしたら、骨肉腫にでもかかってしまったのだろうか?」
「もしそうなら、私の年齢なら転移は早いかもしれない」と、心配になってしまいました。
そうしているうちに仕事が終わり、家に帰って妻に足が痛いことを告げた瞬間、
今日の昼前に、足の付け根と事務所のデスクとが、ぶつかってしまった事を思い出しました。
「そうだ、この痛みはその時のものだ」と原因がわかり、ほっとしました。
ぶつかった瞬間は、顔をしかめて痛みを我慢して、やがて痛みが去っていき、その後すっかり忘れていたのです。
しかし、すぐに新たな心配がやってきました。
「今日の昼間にあったことをすっかり忘れるなんて、もしかしたら近い将来に私は痴呆症になるのでは」・・・・
これは先日私が体験した実話ですが、今回の私に限らず、人は心配をするのが好きなようです。
人はなぜ心配するのでしょう?
もちろん、心配をすることで、問題を回避する行動が取れる、という良い面もありますが、
ほとんどの場合は心配する内容が、自分自身の、命、健康、財産、プライド、家庭、会社の地位など
自分ではどうにもならない事まで、心配することが多いのです。
これらの自分の大切なものが、自分から無くならないかどうか心配でならなくなるのです。
また、既に起こった事を心配したり、遠い将来のことを心配したり、ありもしない事を心配するものです。
しかし聖書には「心配したりしてはいけない」といっています。
「 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、
また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。
いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。
けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。
あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
・・・・
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、
よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
聖書 マタイ 6:25~
神様を信じるなら、自分自身のできる最善を尽くした後は、すべてを益にしてくださる神様にすべてをまかせて、
安らかに生活していく事が出来ます。
私たちのするべき事はあれこれ心配する事ではなく、愛をもって人や物事に心配り(こころくばり)をすることなのです。