新聞のニュースなどを読むと、昔に比べ、日本も物騒な世の中になってきたように思います。
無差別殺人や詐欺、物価の上昇、地球温暖化に至るまで、今も将来においても不安になる要素がいっぱいです。
そして私達は、何かがあると、悪いほうに悪いほうに想像してしまうものですね。
例えば、家族が、いつもは帰宅する時間なのに、とっくに過ぎても帰ってこないと、
「事故にあったんじゃないだろうか」とか、「トラブルに巻き込まれたのでは」と考えてしまい、
「私にプレゼントを買うために、少し回り道しているんだ」と思う人はあまりいないのではないでしょうか。
聖書に次のような言葉があります。
「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなた方に与えるのは、世(社会の中)が与える
のとは違います。」
では、わたし(神さま)が与えると言っておられる「平安」と世の「平安」とどのように違うのでしょうか
世が与える平安とは、一般的にお金があるとか、健康だとか、外面的にいろいろな条件が整っているときに「平安」を
感じますが、それが崩れ去ると、たちまち不安に襲われます。
また次々に不安の要素が襲ってきて、絶えず平安な気持ちが揺らぎ、心もとなく感じます。
一方、神様の与えてくださる平安は、外面的にどういう状態であったとしても、揺るがされることのない、内面的な「平安」なのです。
このように私達はいつでも平安な心のまま生活したいものです。
もともと初めの人アダムとエバは、神様とともに暮らし、平安な日々を送っていました。
しかし、神様に対する「罪」によって、私達は揺るがされることのない内面的な平安を、持つことが出来なくなったのです。
わたし達が社会の中で法律に背いて逮捕されるような罪は犯していないかもしれません。
しかし神様の目(基準)から見ると、私達すべての人が罪を犯しています。
神様の基準は「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ、またあなたの
隣人をあなた自身のように愛せよ」というものなのです。
私達は自分中心主義で、自分を守るために隣の人が傷ついていることを分かっていない場合が多くあります。
そのような自分中心で行動し、また、神様を認めようともしない、わたし達の「罪」のためにイエスが十字架に
架かり死んでくださったのです。
不安が襲い掛かった時、自分の力で何とかしようとする前に、神様に祈りましょう、神様に不安な事を話し、
不安な事を神様に預けましょう。
神様はあなたの罪の代わりに死んでくださった程あなたのことを愛してくださっています。
また、いつも共にいてくださり、必ずあなたを守ってくださいます。
そのことを信じるときに、揺るがされることの無い、内面的な平安がきっとあなたもに訪れることでしょう。
礼拝メッセージの要約
*平安=平和で穏やかなさま