年末年始には、私は車でスキーにいくことを恒例行事としていて、かれこれ30年になります。
私にとって、スキーは、雪山の真っ白な世界で大自然と風を感じて滑る楽しい時間です。
スキー場までは車で滋賀県から長野県へ行くことが多く、昔は目的地までの道順は地図帳だけが頼りでした。
助手席の人が今走っている道を常に把握して、「次の信号を右」とか、「次は左」とか指示しながら目的地に向っていましたね。
今はカーナビのある時代です。
カーナビも地図画面と音声で道案内をしてくれますし、たとえ道を間違えても間違った地点から目的地にたどり着けるように道順を修正し、必ず目的地に連れて行ってくれます。
(さらに渋滞している道や、到着予定時間なども教えてくれて、とても便利になっています。)
ところで私たちは、人生において、日々、意識してであっても無意識であっても、自分でただしいと思える道を選んでいます。
しかし気がついたら全く思っても見なかったほうへ進んでいたと言う場合もありますよね
正しいと思って選んだ道ははたして本当いつもに正しかったのでしょうか
また、本当に正しい道があるなら、どうすればそれが分かるのでしょうか。
わたしたちが目的地を決めるとその進む方向も決まってきますよね。
たとえば、あなたの目的地は
競争している相手に勝利することでしょうか
でもその時は一ときで、勝ち続けることには限界があり、いずれリタイヤするときが来ますね。
また、事業に成功して、地位や名声、大金を得ることでしょうか。
それは悪いことではありませんが、やがて私たちがこの世を去るとき、地位や名声大金はいっしょに持っていくことはできません。
これらのことから一時的な勝利や成功などは最終の目的地とはならないといえるのではないでしょうか
私は正しい目的地と道順、その答えは世界のベストセラーである聖書に書かれていると信じています。
それは私たちを造られた神様に出会うことによってのみ分かるのです。
神様は私たち人を、目的を持って特別な者として作られました。
しかし初めの人アダムの罪によって、人は生まれながらにして罪があり、目的地もその進むべき道も見失っています。
私たちは一般的に、罪とは警察に捕まるような犯罪と認識しています。それは確かに罪ですが
聖書は、人が自分を造られた神様に背を向け、自分中心に生きている状態が罪であると教えています。
イエスキリストは、神様のひとり子として生まれ、私たちの罪の身代わりに罰を受け、十字架で死なれました。
そればかりでなく、罪の結果である死から3日目によみがえり、今は天国におられます。
私たちの最終的な目的地は神様のおられる永遠の天国です。
その目的地に行くために、まず自分の罪を認め、イエスキリストを救い主と信じ、聖書を読み、また神様にお祈りすることです。
イエスキリストは「私は道であり、真理であり、いのちです。」と言われました。
また聖書には
「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く」とあります。
天国と言う最終の目的地に向うときの人生の道案内はイエスキリストであり、日々神様が私といつもいっしょに
おられるという天国の心地を味わいつつ、人生の色々な出来事の中にあっても、
不思議にも安心して進むことができるのです。